この度、横浜マリーナ会員の斎藤智さんが本誌「セーラーズブルー」にてヨットを題材にした小説を連載することとなりました。
クルージング教室物語
第142回
斎藤智
香織は、壇上の先生の話を必死に聞いていた。
先生の話は、けっこう上手に説明してくれるのだが、ヨットの専門用語が多く出てきて、必死で聞いていないとすぐに内容がわからなくなってしまう。
「それでは、午前中の講義はここまでにします」
先生の講義が終わった。
「午後からは、実際にロープの結び方やセイルの上げ方を、実際のロープ、船を使用して実践します」
ヨット教室は、お昼の休憩で一時解散になった。
香織は、腕を天高くぐっと伸ばして、伸びをした。
ずっと座席に座って、講義を聞いていたので、香織は、肩が凝ってしまっていた。
「お昼、どうしようかな」
香織は、考えながら教室を出た。
食事の前に、とりあえず、横浜マリーナのクラブハウス内のトイレに向かった。
トイレの前は、同じように講義を聞いていた生徒たちで長い列ができていた。
「これは無理かな」
そう思いながら、並ぼうと女子トイレの中に入って行くと、ぜんぜん行列もなく、すんなりと用を済ませられてしまった。
ヨットは、やはり女性よりも男性のほうに人気があるらしくて、横浜マリーナのヨット教室の参加者も、男性の数のほうが圧倒的に多かった。
「さて、お昼はどうしようか」
香織は、横浜マリーナ、ヨットハーバーの正門を出て、ショッピングスクエアのほうに歩いて行った。
朝、横浜マリーナに来たときは、早い時間だったせいか、お店も全部閉まっていて静かだったが、今の時間は、どこのお店も開店していて、お客さんもいっぱいいた。
香織が、ショッピングスクエアのトイレの前を通り過ぎると、こちらは男子トイレは空いていたのに、女子トイレのほうは大行列で混んでいた。
「ああ、この人たちにヨットハーバーのトイレを教えてあげたい」
香織は、女子トイレの行列を横目で眺めながら、そう思った。
横浜マリーナショッピングスクエアの店舗の中に、お馴染みのファストフード店を見つけた。
「ここでいいか」
香織は、そのお店に入ると、昼の食事を済ませた。
食後、店内でお茶を飲みながら、少しゆっくりしてから、午後の講義を受けるために、香織は、横浜マリーーナのヨットハーバーのほうに戻っていった。
ヨットハーバーの正門をくぐると、クラブハウス内の教室に戻ろうと建物の中に入った。
「ヨット教室の生徒さんですよね」
香織は、建物の中に入ったところで、横浜マリーナの女性スタッフに声をかけられた。
「今年は、女性の生徒さんが少ないから寂しいですね」
その女性スタッフは、香織に話した。
女性スタッフの話によると、去年のヨット教室のほうが、もっと女性の生徒が多かったらしかった。
その女性スタッフも、その去年のヨット教室の生徒だったらしくて、ヨット教室でヨットの魅力にはまってしまい、横浜マリーナにスタッフとして就職したのだそうだ。
「ちょうど、大学四年生で就職活動中だったのもあって、たまたま横浜マリーナの掲示板に掲示されてた求人募集を見たのよ」
「そうなんですか」
香織は、しばらく女性スタッフとおしゃべりした後で、教室に戻ろうと2階への階段を上がりかけた。
「午後の授業って、実習だからすぐ表でやるのよ」
女性スタッフに教えられて、香織がクラブハウスの表に出てみると、先生が中央に立ち、その周りを生徒たちがぐるっと丸く囲んで集まっていた。
香織も、その輪の中に加わった。
むずかしい講義!?
午後からの実習は、午前中の座学よりもはるかに面白かった。
香織は、授業を夢中になって聞いていた。
午後の授業が始まるとすぐに、生徒たち皆に、短いロープを手渡された。
中央に立っている先生も、生徒たちに手渡されたロープと同じぐらいの長さのロープを持っていて、それを上に掲げてみせながら、ロープの結び方を説明してくれている。
先生の結んでいるのを見ながら、生徒たちにも、手渡されたロープで一緒に結んでみろ、ということらしい。
香織も、一生懸命に先生の結んでいる姿をみながら、マネして結んでいた。
先生は、結び方に慣れているみたいで、スピーディーに手際よく結んでいるが、見ている生徒たちは、皆初めてで、なかなかうまく結べないでいる。
香織も、先生と同じように結んでいるつもりなのに、せっかく結んだはずの結び目がするりと抜けてしまったりしていた。
そんなうまく結べない生徒たちのために、サポートの先生たちがいた。
生徒たちが、中央にいる先生のことをぐるりと囲んでいて、そのさらに周りにぐるりと数人の先生が囲んでいた。
周りを囲んでいる先生たちは、ヨット教室専門の先生というわけではなく、横浜マリーナのスタッフというわけでもない。
ここのヨットハーバー、横浜マリーナに自分たちのヨットを保管しているオーナーさんたちらしい。
そのオーナーさんたちが、うまくロープを結べない生徒たちに、声をかけてくれて結び方を教えてくれていた。
殆どのオーナーさんたちが、40代か50代かの男性の方が多かったが、その中に一人だけ髪が肩の下ぐらいまでのびた女性の姿があった。
「あの人も、ここにヨットを置いているオーナーさんなのかな」
香織は、その女性に気づいて思った。
女性でヨットを持っていて、海に自分のヨットを出しているのかなと想像してかっこいいなと憧れてしまっていた。
私も、彼女のように、いつか自分のヨットで大海原に航海に出れるかな…。
「あ!」
先生の結んでいるのを見ながら、ロープを結んでいた香織は、うまく結べているつもりでいた自分のロープの結び目が、するりと抜けてしまって思わず声をあげてしまった。
「うふ、ちょっと間違えてしまったわね」
さっき、香織が後ろを向いたときに見つけて、憧れていたその女性が、香織の結んでいたロープをサポートしながら声をかけてきてくれた。
「すごく惜しかったよ。ここを下からでなくて、こうして上から通してあげれば…」
その女性は、香織の手を取って、ロープを上から通した。
「こんな風に、ちゃんと結べるでしょう」
壇上の先生が、次の結び方をレクチャーし始めていた。
次の結び方は、その前に結んでいた結び方よりもさらに、少し難しかった。
香織も、必死になって、先生の結び方をマネして結んでいた。
「それは、こう上から結ぶのかな」
さっきの女性が、香織の結んでいるのを優しく手伝ってくれていた。
女性でヨットを操船しているオーナーさんと聞いて、もっと力強くたくましい女性を想像していた香織は、とても優しく教えてくれるお姉さんのことを気に入ってしまっていた。
「こんな感じでマストを登ります」
ロープワークの実習が終わって、次は、ヨットのマストの登り方の実習になった。
腰にロープを巻いた男性が、ヨットの高いマストを、下のウインチでサポートしてくれている人の力を借りながら、登ってみせた。
「さて、誰か登ってみたいという人はいるかな?」
先生が生徒に聞いた。
一人の男性生徒が手を上げた。
「よし、じゃあ、彼。登ってみようか」
その男性生徒は、先生に指されて、前に出ると、ロープを腰に巻いてから、先生にサポートしてもらいながらマストをてっぺんまで登ってから下りてきた。
「全員は無理だろうけど、次は誰か登りたい人いるかな」
先生が言った。
手を上げる生徒が誰もいなかった。
「それじゃ、今登ったのは男の子だったから、次は女の子に登ってもらおうかな」
先生は、香織のことを指さした。
「え、私…」
香織は、一瞬自分に登れるかなと躊躇した。
「頑張って!」
さっきロープワークを教えてくれた優しい女性が、香織の背中に手をふれながら言ってくれた。
この優しいお姉さんに言ってもらえたら、なんとなく自分でも登れそうな気になってきた。
香織は、マスト付近に立っている先生のところに行って、先生が自分の腰の周りにロープをしっかり巻いてくれた。
そのロープでマストのてっぺんまで引っ張り上げてくれるので、そんなに力も必要なく、香織もマストのてっぺんまで登れた。
「香織ちゃん!」
下から、さっきの女性がマストの上の香織に手を振ってくれていた。
香織も、下の女性に向かって笑顔で手を振り返した。
下では、女性がデジカメで自分のことを写真に撮ってくれていた。
斎藤智さんの小説「クルージング教室物語」はいかがでしたか。
横浜マリーナでは、斎藤智さんの小説に出てくるような「大人のためのクルージングヨット教室」を開催しています。